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【アラベスク】  第18章 恋愛少女



第3節 女同士 [11]




「慎二から直接聞いたわ。大迫美鶴を追い詰める事にしたのだと、本人から直接聞いた」
 慎二は悪びれもせずに智論に言った。

「また一人、女が泣く。(たの)しみだな」

 智論は唇を噛み締める事しかできなかった。
「霞流さんがそんな事を」
 呆けたように声を出す。
「どうして、智論さんになんか」
「彼はただ、女性を嗤い者にしたいだけ」
 智論は頭を振る。声が掠れる。
 奥の席にいた女性が一人、チラリと視線をこちらへ投げた。だが、すぐに外した。
 声は聞こえてはいないはずだ。だが、尋常ではない話をしているであろう事くらいは、雰囲気でわかるのだろう。あれこれと勝手に妄想しては身勝手に盛り上がることのできる集団なら、美鶴たちは適当なカモなのかもしれない。
「あなたが泣いて、私が腹を立てるのを見て愉しみたいだけ」
 美鶴は視線を落とした。
 自分へ向かって卑屈に歪められた口元。その口から優しい言葉なんてもう一言も出てこないはずなのに、もっとその声を聞いていたいと思ってしまう。悔しいくらいに劣勢で、何の手も策も思いつかない。なんであんな人の事なんて好きになってしまったのだろうと思いたくもなる。だけれども。
 ぐっと唇に力を入れる。
「私、泣きませんよ」
 智論は顔をあげた。美鶴と目が合うとしばらく無言で凝視し、やがてホッと息を吐いた。
「そうね、あなたなら、泣かないかもね」
 そうしてカップを手に取り、飲もうかどうしようかと迷ってから、唇を付けた。半分ほど飲んでから下ろし、手を離した。その手をそのまま傍らのトートバッグの中へ入れ、ゆっくりと引き出す。
「これ」
 小さな小瓶だった。薬瓶のようにも見える。
「何です?」
「開けてみて」
 言われるがままにキャップを捻る。蓋を開けた途端、芳香が溢れた。
 爽やか。
 まずそう思った。だがそれは一瞬。いつの間にか、どことなくしっとりとした落ち着きも漂っている。
「これは?」
 目を見張りながら瓶を凝視する。
「どう?」
「え? どうって?」
「その香り」
 少し緊張したような表情でこちらの顔を覗き込んでくる。その態度に、どう答えてよいのか困惑する。
「えっと、あの、どうって、えっと、良い香り、です」
 戸惑いながら答える美鶴に、智論は柔らかく笑う。
「慎二に反撃されたら、使ってみて」
「え?」
「気持ちが落ち着くと思うの」
「あの、これは?」
「ただのエッセンシャルオイルよ」
「エッセンシャル?」
「アロマオイルとも言うのかしらね」
 聞いた事のある言葉だ。だが、具体的にどういう意味なのかと問われると、いまいち説明ができない。シャンプーだったか化粧品だったかに使う言葉だと思うのだが。
「あの、それって」
「心を落ち着かせる香りよ。落ち込んでいる時やショックを受けた時に使ってみるといいわ。気持ちが落ち着いて、少しは気分が楽になると思う」
「あの、智論さん、これは?」
「あなたにあげようと思って持ってきたの。もっとも、打ちのめされているようだったら渡すつもりはなかったんだけれど」
 渡さずに、説得をする。慎二からは手を引くように、と。
 でも彼女には無理なようだ。私では説得する事はできない。
 泣きませんよ、と、まっすぐにこちらを見つめてはっきりと口にする美鶴を、もはや智論が止めることはできない。でも、また一人の女性が慎二に弄ばれるのを黙って見ているなんて、そんな事もできない。だったら、できる限り支えるしかない。自分には、それしかできない。
「私に、くれるんですか? この香りを? どうして?」
「もう、泣いている女性を見るのは嫌だから」
「はい?」
「でも、私にできる事はなにもない。せいぜいこれくらい」
 言って、美鶴の手の中を指差す。
「最近、匂いビジネスが流行っているの、知ってる?」
「匂い? いいえ、知りません」
「匂いというか、香りでお客の心を惹きつけようとする商売方法。頭のすっきりする香りを使って生徒の勉強能力を向上させようとする塾が出てきたり」
「香りで?」
「香りってね、結構人の心を左右するものなのよ。どんなに興奮していても、ある香りが漂うと落ち着く、とかね。経験無い?」
「いえ、そんな事は」
 否定しようとして、ふと言葉を切った。
 体調の悪くなった美鶴に、シャンプーの香りを嗅がせてくれたのは、瑠駆真だった。確かに気持ちが落ち着いた。身体も楽になったように記憶している。
 匂い。香り。
「私ね、そういう勉強をしているの。と言っても、まだまだ始めたばっかりなんだけどね」
 と、その時、智論の鞄の中で低い音が響いた。携帯を確認し、目を見開く。
「ちょっと、ごめんなさい」
 申し訳なさそうに眉根を寄せ、携帯を耳に当てた。
「どうしたの? 今、講義中じゃない?」
 そのまま立ち上がろうと腰を浮かせ、だが中途半端なまま動きを止めた。
「え? 嘘」
 目を見開き、片手を口に当てる。
「有機化学の? ウソよ。そんなはずはないわ。だって」
 かなり動揺しているようだ。
 やがてその表情は強張り、黙って、と言うよりかは言葉も出ないといった表情で電話の向こうからの言葉に耳を傾けていたが、しばらくして二・三の言葉を発してから電話を切った。切った後も、少し呆然としているようだ。
「あの、智論さん?」
 あまりの放心状態にどうしてよいのかわからない美鶴が躊躇いがちに声をかける。その声に、ハッと我に返った。
「あ、ごめんなさい」
 いそいそと携帯をしまう。
「あの、何か?」
「いえ、別に何でもないわ」
「そう、ですか?」
 ひどく驚いているような、衝撃を受けているような感じだったのだが。
 追求はしないが心配そうに見つめてくる相手の態度に智論は口元に笑みをつくり、だがやがて大きく息を吐いた。
「あのねぇ、実験のレポート、締め切り今日だって言うのよぉ」
「は?」
 目が点になる。
 レポートの、締め切り?







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